Phantom Thread(邦題:ファントム・スレッド)Review(ネタばれあり)
名優Daniel Day-Lewis の俳優業引退作を観ないでいられるだろうか?
いや、そんな訳にはいかない。
ロンドンでオートクチュールを営む天才肌で完璧主義者のレイノルズ。物語の始まり時点で彼には恋人(遊び相手ではなくおそらく公的な交際相手)がいるが仲は完全に冷え切っている。顧客の期待に完全に応えつつも仕立屋としても私的にも消耗しきっている彼に姉のシリル(彼にとって最良の理解者である)は別荘で休息をとるように提案する。別荘へのドライブの途中で立ち寄ったレストランでレイノルズはあるウェイトレス(アルマ)に見惚れる(彼女の方でもハンサムなレイノルズに見惚れる)。彼女を自分のテーブルに引き留めるために長々と注文した後その場でアルマをディナーに誘う(アルマは受ける)。
レイノルズの別荘で彼女は「仮縫い」される。レイノルズの職人としての顔を目の当たりにし、半裸で採寸されている様子をシリルに見られることに困惑するアルマ。レイノルズが出ていった部屋でアルマと二人きりになったシリルは、彼女が二人のお眼鏡にかなったことを告げる。
ロンドンのオートクチュールでレイノルズの隣の部屋に暮らすことになったアルマは、レイノルズが彼女のために仕立てた服を着、ブランドの顔としての役割を果たすようになる。しかし二人の共同生活についての考え方には埋めがたい溝があった。
レイノルズ
独身の彼はゲイでもなく性的倒錯者でもない、おそらくは「ノーマルな」性的指向の持ち主である。彼が結婚生活(女性との性生活をふくむ共同生活)を営む上で障害となっているのは自身の生活スタイルへの拘りの強さと、仕立屋としてのペルソナが他者をいたわる気持ちより優位にあることにある。
物語の前半には、彼が仕事に傾けられる情熱には結局のところ限度があるのでありその情熱の「持続可能性」に今や黄信号が点っていることがレイノルズとシリルの言動から示唆されます。
アルマ
田舎のウェイトレスとして働いていたころは自分の容姿に自信がなかった彼女は、レイノルズに見出されたことと彼の手によるエレガントな衣装をまとうことで自信を得、魅力的な女性に変身します。しかしマナーの面でも教養においても洗練されていない彼女は、内面的な部分ではレイノルズを満足させることができません。レイノルズにとって邪魔にならないポジションに納まることが受け入れられず、彼の生活の方を自分の望む方向に変えようとする「無謀な」企ても止められない。この二人の関係がこの先行き詰るのは時間の問題です。
代理ミュンヒハウゼン症候群
レイノルズが心身ともに消耗しきったときだけ自分を無条件に受け入れることを知ったアルマは、彼に毒を盛ります。このシーンで私が思い出したのが「代理ミュンヒハウゼン症候群」です。この疾患名を聞いたのは、病気の娘を甲斐甲斐しく看病してた母親自体が「娘を甲斐甲斐しく看病する母親」としての評判を得るために娘に毒を盛っていた、という衝撃的なニュースによってでした。
代理ミュンヒハウゼン症候群 – Wikipedia
ただ彼女の場合は自分の行為をおそらくは確信的に行っているので精神疾患とは違うんでしょうね…
良いのか、これ。(;´Д`)
アルマがレイノルズに毒を盛ったのは、彼がそのキャリアのうちで最も重要な仕事にかかっている、まさにそのときでした。この場面は明らかにアルマが、自分のエゴのためにレイノルズの健康を害し、彼のオートクチュールを台無しにしかけたことを印象付ける意図で撮られています。しかも自分が彼の看病を独占するためにシリルの呼んだ医者を追い返してしまいます。病の癒えたレイノルズは献身的に看病してくれた(と思い込んでいる)アルマにプロポーズしてしまいます…
結婚生活は新婚旅行のうちから上手くいかないことが明らかになります。レイノルズはアルマの望むものを与えられないし、アルマの方もレイノルズの望むものを与えられません。
ラストシーン
仕立て屋として行き詰るレイノルズ。結婚生活も破綻が目前です。この期に及んでアルマは再び「毒」に頼ります。しかも見るところ「毒の特盛」といった感じで、これ食べたら死んじゃうんじゃないか…と思わせます。
ここからのレイノルズの演技が素晴らしい。
アルマがキノコの料理をしている様子をみてレイノルズは自分を襲った病気の正体を悟ります。
給仕されたキノコ料理を前にアルマを見つめるレイノルズ。
キノコ料理を…口に…入れるの!??
キノコを咀嚼するレイノルズを前に自分の想いを打ち明けるアルマ。レイノルズはその想いを受け入れるように料理を飲み下します。
これ(毒)を必要としていた二人
レイノルズは仕立て屋としても社会的生活を営むうえでも(時々は)自分の弱さをさらけ出すことと他者に対して無条件に自分を差し出すことを必要としていたのでした。彼がもしアルマとの邂逅を果たさなかったとすれば、彼は早晩仕立て屋としても生活者としても完全に行き詰ってしまっていたでしょう。
田舎娘のアルマは自身の素養ではレイノルズの配偶者としての役目を果たせませんでした。しかし彼のアクの強さに負けない精神的な強さと「毒を盛っちゃう」ほどの行動力によって「彼がまさに欲していたただ一つのもの」を与えられる唯一無二の存在になります。彼女のキャラクター造形はシェイクスピアなど英国劇にみられる「羊飼いが一番の賢者だった」式のレトリックを思い起こさせます。
シリル
弟とアルマを見守るクールな、でも優しい眼差しが印象的です。彼女にはきっと物事がこのまま行けば弟もオートクチュールも、そこに拠っている自分の社会的立ち位置も成り立たなくなることが分かっていたんだと思います。アルマのやることを肯定しないけどでも決して拒絶しなかったのは、シリルにもアルマにこの行き詰まりを打開することを期待する気持ちがあったからじゃないでしょうか。
音楽
めっちゃ良いです。この映画のサウンドトラックは買おうかな、、と思ってたら監督が直々に鑑賞用プレイリストを公開してました。
P・T・アンダーソン、『ファントム・スレッド』鑑賞用プレイリスト公開。リアーナやビヨンセ等23曲
ダニエル・デイ-ルイス
素晴らしいの一言しか言えません(語彙力のなさよ…)。手足がすらっと長くてシャツとトラウザーズだけの格好のときも、ベストを着たときも、ジャケットを羽織った格好も実に格好良い。しゃがれた、ちょっとかすれた声の出し方がレイノルズの内気さを表していたと思います。
元々靴職人としての修行経験があるのに加え引退後はデザイナーを本職とするとか…そっちも繁盛しそうですね。
とても好きな役者さんだったのでこれで見納めとなるのは残念ですが、一人の偉大な役者の最後の仕事を目にすることができたのは幸せなことだと思うことにします。
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